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建築の由来

もともと立川家は、現北広島市上根地方より、可部町南原に移ってきた一族である。南原立川家では、長い間男子に恵まれなかったため、長女政(まさ)が上根立川家の斧太郎と縁組みし南原立川家を継くこととした。ところが、その後、政に弟貞治が誕生したため、立川政・斧太郎夫婦は、分家として明治23年に、高松山を望むこの地に移り住むことになった。したがって、この家屋は、南原立川本家邸宅と同じ間取りに作られている。

可部立川家の歴史

◆初代(斧太郎)

初代当主立川斧太郎・妻政(まさ)は、水に恵まれた地の利を生かし、造り酒屋として、立川家を発展させてきた。

◆2代目(弥)

2代目当主となった立川弥(わたる)は、三男であったが、上京した長男太郎(元国会議員。妻は高木正善五女留子)と共に立川家を守ってきた。ちなみに次男義視(かずみ)は21歳で早世している。立川弥は、大正10年に三入村村長に選出され、当時日本で最年少の村長となったが、その後、兄の誘いもあって上京し大田区に住まいを構える。第二次世界大戦時は、一族が疎開先の一時的な住まいとした。

◆3代目(力)(昭和2年生〜平成24年死去)

弥死去の後、妻斐(あや)が可部立川邸に戻り居するも、昭和59年に死去後、主の失った家屋となった。2代目弥より「家を頼む」と遺言を受けた3代目当主立川力(つとむ)(東京練馬区在住)は、主のいない立川邸を定期的に訪れ管理し、度々と改装をしつつ維持してきた。

◆4代目(幸男)(昭和36年生〜)

東京で生まれ育った4代目となる幸男(ゆきお)が、昭和61年可部の地に戻り、管理運営を行ってきたが、平成19年立川邸に居を移し現在に至る。

立川邸小話

◆小松宮彰仁親王ご来訪

明治時代、小松宮彰仁親王ご一行がお立ち寄りになられ、その時の記念の書の額が表座敷に飾られている。書には「晩翠」と彰仁親王の雅号が記されている。

小松宮彰仁親王殿下は日清戦争に出征、その際、大本営が設営された広島に来訪されておられる。また、日本赤十字社の第4代社長勤められた関係で、広島の赤十字社(病院)にも訪れた。なお、この広島の赤十字社には、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、新島八重も看護婦として従軍した。立川邸にご宿泊された経緯は定かではないが、赤十字社の社員(会員)獲得のためではないかと推察する。頂いた書の裏に日本赤十字社の文字を確認できる。また、邸内に赤十字社の社員章も残されている。

◆可部街道

当時、この辺りは、田畑広がる地域であった。可部旧国道が幹線道路で唯一の車道であった。従って、立川邸の表門もこの旧国道に面して位置しており、門前にバス停留所があった。国道54号線(現183号線)が出来た後、旧国道沿いは以前の華やかさを失ったが、町並みを残そうという人々の努力で、今も古き良き面影を残している街道になっている。

◆太田川川下り

2代目弥の兄太郎は東京で成功したということもあり、太田川の川下りをするなど、派手な遊興もあったという。しかしながら、立川家の現在管理しているいくつかの土地に、切り売りした名残や、抵当権が付いていたことを考えれば、結局のところ、財政面で堅実でなかった時期もあったということであろうか。

◆嫡子の事故死

昔の風習では、家督は長男が継ぐことが慣例であったが、初代斧太郎も2代目弥(わたる)も3代目力(つとむ)も長男ではない。力の兄は京(ひとし)と言って、高校生のときアチェーリーの事故で亡くなった。この時、嫡子を亡くした事態に、立川家での落胆、嘆きは想像あまりあるが、相手の学生になんら補償も求めなかったという。立川家が今までのところ無事引き継がれているのは、なにかの守り(京さんの守護)があるのではないか、と立川家では言われる事もあるという。

◆お宝盗難事件

立川邸が空き家になっていた時、泥棒の災難にあった。蔵専門の泥棒で、トラックを乗り付けてやってきたらしい。掛け軸や屏風や調度品など古美術品をごっそり持っていかれてしまった。かえずがえず惜しい事であるが、立川家では、かえってすっきりした、と前向きに考えるようにしているという。一番値段がよかったと推測されるものは、頼山陽の書画であった。ただし、頼山陽の書画は贋作も多いらしくその真偽は定かではない。

◆立川家の墓所

立川家の墓所は、立川邸より徒歩10分の山の麓にある。5墓ある。山が近いので、木々の枝が覆いかぶさり、落ち葉も山のように落ちてくる。大変メンテナンスしがいのある墓所である。

◆昭和の大改装

3代目立川力は、東京で生まれ育ち、東京に居を構えている。22歳で父を亡くした後、東京大手百貨店に勤務の傍ら広島の家の管理と実母の扶養を行って来た。昭和51年からは職を早期辞し広島の家の管理に専念したことで、家が今日まで維持されて来たと言えよう。特筆すべきは、茅葺きの屋根の上に耐久性と美観を考慮した銅板屋根を葺いた昭和の大工事である。

◆災害と修復

豪雨や台風で何度も大きな被害に見舞われた。根の谷川・南原川の合流地点近くということで、昭和18年9月の大洪水で床下浸水の被害もあったという。修復を重ねながら家屋を維持している。

塀は狭い道である上に、丁度曲がり角にあたる為、車によくぶつけられてしまう。赤い棒が立っているのは、車よけのため、苦肉の策で取り付けたものである。

漆喰の修理は、修理できる職人さんも少なく、また、年月も経っている為、土の力がなくなりもろくなっている。できるだけ風情を大切に、修復をしている。

◆納屋が最先端情報発信の場に!

以前牛を飼っていたという納屋を改築し、現在4代目立川幸男(ゆきお)が会社を興しそこでコンピュータソフトウェア開発を行っている。その会社の代表取締役である幸男は、その名を「(有)光琳館」と命名した。江戸時代の型破りなトップ人気デザイナーでもあった画家「尾形光琳」が由来だ。この古民家で誕生したソフトが、全国を席巻するのも間近か?

◆平成の改装

26年間人の住まいの無かったこの家に再び灯を灯したのは、4代目立川幸男である。平成19年に家の雰囲気を壊さぬよう最小限に手を入れ、22年住んでいた向かいの家から居を移した。庭園を定期的に手入れしながら、妻淑恵(よしえ)が主宰するお琴と三味線教室から音色が響く趣のある家として、多くの来客を迎えている。


立川邸全景 (2006年撮影)


立川邸を庭から望む


近隣にある立川家墓所


墓所にある墓碑銘

墓碑銘文

覚成院釋佑述逑信士 俗名立川太郎
明治十七年四月十四日廣島縣高宮郡南原村字綾ヶ谷にて、父立川斧太郎母政子の長子として誕生す。明治二十三年父斧太郎分家して、居を三入村横川の地に構え共に移る。鹿児島の第七高等学校に進み明治四十五年東京帝国大学法科大学政治学科・独逸法律学科を卒業大正二年高等文官試験に合格。内務省警視廳府を命ぜられ、小石川警察署長を振り出しに大塚・牛込・神楽坂・京橋・築地各署長を歴任し大正八年従六位叙せられ、警視廳方面監察官に補せられ。大正九年妻の死に遭い依頼退官す。大正十年東京市にて弁護士を開業す。後に牛込区区会議員に当選、東京市市会議員に挙げられ政友会、東京支部長に就任、昭和三年第一回普通選挙法の施行により東京第一選挙区(牛込・麹町・赤坂・麻布・芝の五区)より衆議院議員に当選以後四期連続当選を果す、昭和九年勲四等瑞宝章を拝受す。 東京市街電燈株式会社、多摩川水力電気株式会社、日本紡績株式会社等の取締役社長を務めた。昭和三十五年七月三十一日廣島市中区舟入本町町にてその生涯を終える。享年七十七歳。

護念院釋尼貞留 俗名立川留子(旧姓高木)
旧河内丹南藩主、旧丹南知事、宮中祇候賢所勤番、貴族院議員、子爵高木正善の二女として、明治二十三年九月東京府赤坂区青山高樹廳にて誕生。女子学習院卒業。三笠宮百合子妃殿下の伯母。大正四年、立川太郎に嫁す。大正九年二月一日、悲しい哉幼い一男三女に心残しつつ、東京市麻布区三河台十四番地にて早逝す。享年三十一歳。盛大なる築地本願寺葬の後、弟高木正得氏(妃殿下の御尊父)遺骨を胸にいだき、現廣島市安佐北区可部町大字城の山中、立川家墓地に埋葬す。以来、省みられる事もなく、早七十幾星霜を経て、初めて子・孫相寄り相計りて、薄幸の君の其の冥福を心より祈りつつ三思の後銘を碑面に刻し、茲に立川家墓誌の碑を建立す。

平成七年春吉日 嗣子立川正辰 長女細谷清子


立川邸被害


庭木戸台風被害で2回目の倒壊。平成16年(2004年 )当時は白漆喰壁。


塀の損傷



↑修復後 平成29年(2017年)


蔵壁の修繕。焼杉使用。 平成27年(2015年)